昭和三十九年11月9日 夜

 今晩夕食を頂き終わっておりますところに、小倉の富永さん達が親子三人で御礼参拝になりました。富永先生も何年ぶり、久しぶりに見えたわけですが、丁度夕食を頂き終わっているところでございましたので、そうゆうことの中にも、神様の御働きを頂いておるなあと思って、駅から直接来たと言われましたので、御夕食でも差し上げたかったのですが、丁度月例祭前になると、何もかにもうちあげて、そうゆう状態の時ですから、お茶でも濃うして差し上げましょうと、古賀先生が用意して、余りお茶は召しあがられんのですけど、二ふくも頂かれて、羊かんもやっぱりお腹が空いておられたのでしょう、出してからあんなに気持ち良く頂いてもらうと気持ちよいですね。おかげ頂いてよかったなと思わせて頂きました。
 今朝からお茶の準備もしてありましたので、すぐ差し上げられました。一時間ばかりお話して帰られました。ここへ来ましたら、久保山先生が御結界奉仕をしておられます。いつものことですが、久保山先生が御理解の筆録をしておられる。もう本当にここは古賀先生でなければできない御用がある。ここは久富先生でなければならない御用が、それぞれの上に、しかもその人でなければいけないと言う御用なのです。そうゆう中にお使い廻しを頂いているご信者さん方の上でも同じことと思うのです。そうゆうおかげを頂いているにもかかわらずですね、今久富先生から御取次させていただいたですけども、今朝方お夢を頂いた。ある人が久富先生に「あんた達椛目から出て行きなさい」と言われた。心の中じゃ、誰が何と行っても出ていくもんかと思っているお夢でした。その中に久富先生が椛目で頂いておられる、分担しておられる御用の事が、ズ-っとお夢の中に頂いておられるのです。そしてその中に頂いておられることなのです。それが久富先生が一生懸命に御用頂いておられるのだけれどもね、その御用がそのまま修行として神様が受けて下さる修行と、受けて下さらん修行がある。こりゃ古賀先生の場合だって、久保山先生の場合だっても同じ事だと思う。受けて下さらん修行というものを自分で分からせてもろうて、そこんところをさとらせて頂いたら、空虚にならん。いわば神様が受けてくださる修行と頂いて、満たさせていただいた時に、本当のことになってくると思う。お互いが日々信心生活をさせて頂いておりますから、まあいうなら充満した、すきの無い御用を頂いているのであり、とりわけ三人の先生方は、それでなければならぬ御用を受け持ってあるのですけど神様の目から御覧になれば、一パイではあるけど、まだまだ三分の一は神が受けとらんという修行もまじっているということです。ですからそこをきずかせてもろうて取り除いたら、今度は受け取って下さる修行になってくるでしょうが。そんなこと思わせて頂いている時に、しげをさんといさをさんが参ってみえた。毎日こうして参ってこられてから、ここでもそれぞれの御用をなさってから帰られる。そうゆうことの中でも、家族の中にもです。果たして神様が受け取って下さる修行であろうかと、喜んで下さっている御用であろうかと、再検討する時期ではなかろうか、そう頂いて見ると、こりゃ久富先生でも自分のことはわかりませんもんねと、先生自身もとたんに感じられた。椛目のことには一生懸命、誰が何と言っても帰るもんかと、一生懸命のものがあるにもかかわらずですね、空虚なものだけでなくて、神様が受けなさらん。神様が嫌いなさる御用で一パイになっていることはないかと、先生は先生なりに胸にきてるわけなんです。また夢の中でもそれを感じたと言うておられます。ですからそうゆうものが除かれてです、本当に神様から、十二分に御用お使い廻し頂く。十二分の御用が、全部御用としてお受けくださるおかげを頂かねばならんなというようなことも、改めて今日、また感じたんですけれどね。おかげ頂かなきゃいけません。